Thank You 2.姉貴との出会い
私はあの時、姉貴の部屋にいた。
こことは打って変わった真っ黒で明かりのない部屋。
床には食い散らかした菓子やビール缶が転がっていた。
姉貴の部屋はいつもたばこ臭くて、それプラスいろいろな人の香水が入り混じった変なにおいがした。
鼻にツンとくるそのにおいが私は好きだった。 はじめは嫌でたまらなかったのに。 思えばいつから姉貴の部屋に入り浸るようになったんだろう。

姉貴と知り合ったのは中2の秋くらいだったと思う。 もうずっと学校には馴染めずにいた。 丁度中学入学当初から、親ともぎくしゃくしていて、先生とも馬が合わず、グレていたんだな。
夏も終わりの頃、私はテストで(毎度のことながら)0点を取ってしまって、禿げた男性教師、花尾に生徒指導室に呼び出された。
そして言われたんだ。「お前はどうしてそう悪ぶっているんだ。やればできる。なぁ、潟中」そうやって花尾は私に座るように促して、お茶まで淹れてくれた。
あの頃、私をまともに評価してくれる先生はこの花尾を除いて、誰一人としていなかった。
遅刻常習犯で、授業中の居眠りは当たり前。
無断で学校を休み、先生に向かって暴言をいくらでも吐く。
更生は無理だと誰もが諦めていると、そう思っていた。
私もそう望んでいた。否、本心は誰かに救ってもらいたいと思っていた。
両親にさえ見放された私。
小学生の頃みたいな素直で笑顔を絶やさぬ自分を、呼び戻してくれと叫んでいたんだ。
だけど私はそれを知っていながら必死に隠し、笑顔は消し、気に食わないことは暴力で解決した。
だが、花尾はそんな自分をまだ信じてくれていた。

「お前はこんな子じゃない。人の痛みを分かり、真面目に人と向き合える、良い子だ」

今思えば、この花尾の言葉をもっと親身に受け取って受け入れていたら、私は今華やかに高校生活をスタートさせていたことだろう。
しかし、私は花尾の言葉を放り投げ、底なしの沼へと自ら進んで沈んでいった。
何故湧いてくるのか分からない怒りに身を震わせて、私は大声で叫んだ。

「何言ってんの。バカじゃない!」

私は花尾の淹れてくれたお茶を一口も飲まず、駆け足で生徒指導室を出て行った。
椅子を立ち上がったときの花尾の顔、とても悲しそうで、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
それでも私はそこから逃げることしかできなかった。
まるでたった今リストラされたサラリーマンみたいに落ちぶれた表情をした、花尾を残して。
私はすぐさま家へ戻り、荷物をまとめた。

もうどうでもよくなってしまった。

制服は脱ぎ捨て、そこらへんにあったジーパンとTシャツを着て、帽子を被った。 下着類や衣服を詰め込んだ。 そして有り金を持って、家を飛び出した。
あたりはもう既に日が落ちていて、真っ黒な雲が星はおろか月までも覆っていた。
早足で駅へと急ぐ間に雨がぽつぽつと降り出し、やがて土砂降りになった。
傘を持ってこなかった自分に悪態をつきながら、駅へと走った。
あんなに全速力で走ったのは久しぶりだった。
だからようやく駅についたとき、私はみっともなくはぁはぁぜぃぜぃ息を切らしながら、駅構内のベンチにどさっと腰を下ろした。
時刻表を見ると、あと30分後に電車が来るらしい。

改めて自分の身なりを見る。
ボストンバック1つを抱え、目深に帽子を被った少女。 家出娘に見えるだろうか。 両親は警察に捜索願を出すだろうか。 放蕩娘がいなくなって良かったと思うのかもしれない。
もうそんなことはどうでもいい。
ひどい雨音、ずぶぬれの服。なんだか笑えてきた。

それから終点まで長い時間電車に乗った。
見たことも聞いたこともない土地へたどり着いたときには、もう空は白け始めていた。
だけどそこでもまだ雨は降っていて、行くあてもないからその終着駅で一夜明かすことにしたんだ。
小さな駅でおまけに無人駅だったから好都合だと思ったことを覚えている。
茶色の椅子に腰を下ろし、目を瞑る。
これからのこと、お金のこと。
妙な自由と開放感にあの時は満ち溢れていて、不安はそれに隠れて見えなかった。
否、見ようとしなかった。
うとうととし始めたとき、小さな駅に足音が響いた。
私は目を開けた。
天井からぶらさがる切れかけた蛍光灯は、ちかちかとその人を照らしていた。
真っ黒で長い髪、切りそろえられた前髪、黒を基調とした服、ブーツの音。
薄明るい構内の中、雨音を背にその人は言った。

「うちへ来る?」

何の感情も読み取れなかった。だが私はそのときの光景を忘れはしないだろう。
そしてまだまだ短い時間しか人生を生きていないが、私はその時はっきりと感じた。
この人は大丈夫。信頼できる人だ。

それが姉貴との出会いだった。

どうしてあんな時間に駅に来たのか、終電はとっくに行ってしまったのに、と後で訊いたが、姉貴は何も返事を返してくれなかった。
top back next home
template : A Moveable Feast